「浮気」や「不倫」という言葉には、道徳的・倫理的な否定の響きが込められている。
それらは一般的に、結婚という契約関係にある者が配偶者以外の人と恋愛関係、または性的関係を持つ行為を指し、現代社会では批判の対象となる。
しかし、それが絶対的な「悪」かと言えば、話はそう単純ではない。
なぜなら、時代や文化が異なれば、浮気や不倫が必ずしも非難されるわけではなかったからである。
そして、何よりも興味深いのは、多くの人がそれを「悪い」と理解しつつも、どこかで憧れを抱く心理を持っていることだ。
この矛盾した感情は、人間の本質に根ざしているのではないか。人はなぜ「いけないこと」だと知りながらも、それに心を惹かれるのか。
この問いに向き合うことで、浮気や不倫という現象が単なる道徳的な問題にとどまらず、人間の存在そのものに関わる深いテーマであることが見えてくる。
道徳と社会規範の変遷

歴史を振り返ると、浮気や不倫に対する価値観は、決して普遍的なものではなかった。たとえば、江戸時代の日本では、武士や商人が遊郭で遊ぶことは社会的に許容されていた。
明治から昭和初期にかけても、妾を持つことは一定の地位にある男性の間で珍しくなく、むしろ「甲斐性」とさえみなされていた。一方で、女性の不貞は厳しく罰せられたため、当時の倫理観は明らかに男性優位のものであった。
しかし、時代が進むにつれ、男女平等の概念が浸透し、結婚における相互の忠誠が強く求められるようになった。
特に近年は、女性の経済的自立が進み、夫婦関係において対等性が重視されるようになったことで、浮気や不倫への非難はかつてよりも厳しくなっている。
芸能人や政治家の不倫がスキャンダルとして大々的に報じられ、世間のバッシングを受ける様子は、その象徴的な例である。
しかし、こうした価値観は本当に「絶対的な正義」なのだろうか。ある時代には許され、別の時代には非難されるというこの現象は、浮気や不倫が本質的に「悪」であるわけではなく、それが社会規範に従って善悪の判断を受ける相対的なものであることを示している。
禁じられたものへの憧れ

浮気や不倫が道徳的に「悪」とされる一方で、それに対する憧れが存在するのはなぜか。それは、人間の根源的な心理に関わる問題である。
第一に、人間は「禁じられたもの」に惹かれるという特性を持っている。これは心理学的にも説明可能であり、「カリギュラ効果」と呼ばれる現象がある。これは、禁止されればされるほど、その対象への関心が高まるという心理である。たとえば、秘密の恋や禁断の関係がスリルや高揚感を伴うのは、まさにこの心理が働いているからだ。
第二に、人間は常に「今とは違う可能性」を求める生き物である。結婚生活は安定をもたらす一方で、刺激や新鮮さを失わせることもある。長年連れ添ったパートナーとの関係が日常化すると、「もしも別の人生を選んでいたら」とか、「あの人と結ばれていたら」という想像が膨らむ。そして、その想像の先にいるのが「浮気」や「不倫」の対象となる人物であることが多い。
この心理は、多くの文学や映画、ドラマに描かれてきた。たとえば、古典文学においても『源氏物語』の光源氏のように、多くの女性と恋愛を繰り広げる主人公が登場する。フランス文学の『マノン・レスコー』や『ボヴァリー夫人』も、不倫をテーマにした名作として知られている。こうした物語が時代を超えて愛されるのは、そこに「人間の本質」が描かれているからではないか。
理性と本能のせめぎ合い

浮気や不倫に対する憧れは、人間の本能的な衝動から生じるものだ。しかし、それを抑制しようとするのが理性であり、社会規範である。
理性は、「それを行えば誰かを傷つける」ことや「信頼を裏切る」ことだと理解している。それにもかかわらず、本能的な欲求は消えることがない。この葛藤こそが、人間を人間たらしめている要素なのかもしれない。
哲学者カントは「道徳とは義務である」と述べた。つまり、「正しいこと」を行うのは、個人の欲望や感情に左右されるものではなく、義務としてなされるべきものであるという考え方だ。これに従えば、浮気や不倫は個人の感情の問題ではなく、社会的な責任を伴う行為として捉えられるべきだろう。
一方で、ニーチェは「道徳は権力を持つ者が作る」と述べた。つまり、何が「善」で何が「悪」かは、支配的な価値観によって決定されるという視点である。これを踏まえると、現代における浮気や不倫の否定的な価値観も、社会の力学によって作られたものであり、それが普遍的な真理ではない可能性がある。
結論:人間の二面性を受け入れる

「浮気」「不倫」は、倫理的に見れば「悪」である。しかし、人間は理性だけでは生きられない存在であり、本能と感情を持つ生き物である。そして、その二つの間で葛藤することこそが、人間の本質である。
現実には、多くの人が浮気や不倫によって傷つき、家庭が壊れることもある。それを考えれば、軽率に踏み込むべきではない。しかし、一方で「憧れの感情」を持つこと自体は、人間の自然な心理であり、それを無理に否定する必要もない。むしろ、それを受け入れた上で、どのように理性と折り合いをつけるかが、成熟した人間としての在り方なのではないか。
結局のところ、人間は「してはいけない」と分かっていながら、それでも心を揺さぶられる生き物なのだ。それこそが、僕たちが道徳と欲望の間で生きる存在であることの証明なのかもしれない。
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